10月28日 召天者記念礼拝            2012年

丹羽美香師

 

「全ての人の本分」

伝道の書12章1-7節

 

聖書 口語訳より
12:1あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ。悪しき日が
  きたり、年が寄って、「わたしにはなんの楽しみもない」と
  言うようにならない前に、
12:2また日や光や、月や星の暗くならない前に、雨の後にまた
  雲が帰らないうちに、そのようにせよ。
12:3その日になると、家を守る者は震え、力ある人はかがみ
  ひきこなす女は少ないために休み、窓からのぞく者の目は
  かすみ
12:4町の門は閉ざされる。その時ひきこなす音は低くなり、
  人は鳥の声によって起きあがり、歌の娘たちは皆、低くさ
  れる。
12:5彼らはまた高いものを恐れる。恐ろしいものが道にあり
  あめんどうは花咲き、いなごはその身をひきずり歩き、  
  その欲望は衰え、人が永遠の家に行こうとするので、
  泣く人が、ちまたを歩きまわる。
12:6その後、銀のひもは切れ、金の皿は砕け、水がめは泉の
  かたわらで破れ、車は井戸のかたわらで砕ける。
12:7ちりは、もとのように土に帰り、霊はこれを授けた神に
  帰る。
・・・・・ ・・・・・ ・・・・・ ・・・・・

 本日は、先に召された方を偲んでの礼拝です。その為、教壇の前にはその方々の写真を並べておりますが、この写真を拝むために置いているのではありません。その方々が生前どのような信仰の歩みをなさったか、あるいはどんな人柄であったのか、など、お世話になった方々を偲んでの礼拝です。当教会では、一年に一度このようにして「召天者記念礼拝」をもっています。

 さて、今、日本は世界でも一番長生きをする国と言われています。女性の平均寿命は87歳、男性は83歳で、100歳以上の方は2千人以上…などと新聞に書かれていましたが、その日本でここ10年来、非常に流行しているお寺参り「ぽっくり信仰」があります。「人の世話にならないで、ぽっくりと死にたい」という願いから、この信仰が盛んになって多くの方が列をつくってお参りに行くそうですが、ただ「長く生きる」だけで老人の問題が解決するわけではありませんね。また、碁や将棋、カラオケなどを老人クラブにつくることも悪くはないと思いますが、それも根本的な老人問題の解決にはならないと思います。大事なことは、その人が召されるまで「生き甲斐を感じて生きていくこと」であると思います。

 前に並べられた写真にある先に天に召された兄姉方のなかで、ある人は非常に短い人生だったかも知れません。またある方は、天寿を全うしたというほどに長く生きられたかも知れません。あるいは、突然の事故や急に襲われた病気で召された方もいらっしゃるでしょう。その反対に、何年も何年も寝たきりなどで家族の方々のお世話を受けながら、その最期を迎えた方もあるかも知れません。しかし、「どなたも神様の側からみると、その方の最善のときに神様の御許に呼ばれたのだ」ということを、いつも丹羽牧師は告別式の時にお話いたしますが、私もそう信じます。「あ~、惜しかったね。そんなに早く亡くなられたの?」「あの方はご家族を困らせておられたから、これでご家族も一息つけるでしょうね」などと言われることもあるかも知れませんが、それは人間側のことであって、神様の側からすれば、その人の最も素晴らしいとき、神様は天にお呼びになられるのです。

 

■人生の楽しみが失せる前に神を信ぜよ 

 この写真にある方は、神様を信じて救い主に頼って日を送られたお一人お一人ですが、本日のみ言葉である、伝道の書12章1節では、「人は若いときに神様を信頼しなさい。私には何の楽しみもない、というようにならない前に」とあります。でもこれは若い人達にだけ向けて言われているのではなく、私たち一人ひとりに対し、「あなたの一番若いときは今だ」。明日は今日より歳をとります。だから「今、神様を信頼しなさい」と聖書は言っているのですね。

2節の、 また日や光や、月や星の暗くならない前に、雨の後にまた雲が帰らないうちに、そのようにせよ」とは、歳を重ねると、見る目、聞く耳などの感覚機能が鈍くなってきます。そして、雨模様の天気のように、雨が止んだかと思えばまたすぐ降ったり、雲に覆われたりするように、気持ちや感情(精神的に)にムラが出てきます。喜んでいたかと思うと、急に寂しくなって涙がポロポロとこぼれてくる時もある。問題があるわけでもないのに辛くなってくる。というような感情にムラが出ないうちに、み言葉にある「月や星の暗くならない前に、雨の後にまた雲が帰らないうちに」神様を覚えて信頼しなさいと、ここには書いてあるわけです。

 

■人間の身体の衰えの状態

 3節から7節までは、比喩的に人間の身体がどんな状態で衰えていくのか、ということが詳しく書いてあります。

3節、「その日になると、家を守る者は震え」る。とあります。歳をとると身体や手が震えてきますが、その状態を表しています。若い時にはなかったが、すぐに躓いたりしますね。しかし、これは自然におこることなのです。続けて、「力ある人はかがみ」とあります。これは、足腰が萎えて弱くなってきて、どうしても前屈みになってきますね。更に、「ひきこなす女は少ないために休み」とは何のことでしょう?これは歯が無くなっていくことを表しています。歯は抜け落ち、入れ歯をしても以前のようには食べられなくなりますね。続く、「窓からのぞく者の目はかすみ」とは、目はうすくなってゆき、霞んで見えにくくなることです。みなさん、心当たりはありますか?

そして、4節では、「町の門は閉ざされる」とあります。歯が抜け落ち少なくなっているので、食事をする時、口を閉じるようにモソモソと食べるようになるんですね。あと、口数も少なくなってきます。その次を見ると、「その時ひきこなす音は低くなり」これは、歯切れ悪くモソモソと話すようになる。昔はもっと大きな声でパッパッと話せていたんだけど…、と思うようになりますね。続けて、「人は鳥の声によって起きあがり」早く目が覚めるようになります。若い人と一緒に生活をされている方は、こんなに早く起きてゴソゴソすると悪いからと我慢して自室に居るようなことがあるかも知れませんね。そして、「歌の娘たちは皆、低くされる」耳が遠くなって、声にも力が無くなってくることを表しています。「聞こえないので、もっと大きな声で話してください」と言われることがありますが、自分では大きな声で話しているつもりが、ちゃんと声が出ていないせいです。

5節を見ると、「彼らはまた高いものを恐れる」日本では、一番高い東京スカイツリーというビルが建ち、若い人はどんどん上っていくでしょうが、歳をとると見るだけで怖くなってしまいます。そのように、高いものを恐れ怯えるようになります。「恐ろしいものが道にあり」とあります。道には最近、高速で静かな自動車が往来するようになり戸惑います。昔は信号が変わる寸前でもパッと走って渡って行けましたが、今では出来なくなりました。「あめんどうは花咲き」髪の毛は白くなり、「いなごはその身をひきずり歩き」体力が無くなってしまい、いなごのような身の小さなものでさえ、その身体の重さや圧迫を感じるようになります。重たい荷物も持てなくなりますね。「その欲望は衰え」あれが食べたいとか、この品物が買いたいなどという欲は無くなってしまい、「与えられたもので十分です。整理するのが大変ですから」というようになってくるんですね。そして、「人が永遠の家に行こうとするので、泣く人が、ちまたを歩きまわる」お葬式が増えるので、泣く人(泣き女)が忙しく行き来するようになるとあります。

6節、「その後、銀のひもは切れ、金の皿は砕け、水がめは泉のかたわらで破れ、車は井戸のかたわらで砕ける」寿命が絶えて身体が朽ち、そして、死んで命が無くなるのだとあります。

7節を見ましょう。「 ちりは、もとのように土に帰り、霊はこれを授けた神に帰る」 ここでは、「身体はもとのちりに帰りますが、全ての人の魂は、神様を信じていても信じていなくても、神様の御前に出るときがあります」ということが書いてあるのです。クリスチャンだけが神様の御前に出るわけではないのです。人は誰でも死ぬことと、死んだ後、裁きを受けることが決まっていると聖書にはありますから、みな神様の御前に出るときがあるのです。つまり、「あなたはその為の備えが出来ていますか?」とここでは言っているんですね。ですから、このような状態になる前、「年が寄って、『わたしにはなんの楽しみもない』と言うようにならない前に、あなたの造り主を信じて生きなさい」と書いてあるわけです。 

 かの有名なお釈迦様のお話です。彼は大きな宮殿の王子様として生まれました。若いある日、散歩に出ようと一つの門から外へ出るとき、老人に会いました。その歩き方や身体の様子を見て「人は老いてゆくのだな」と思い、散歩に行く気を無くしてしまった。また、別の門から出ようとするとき病気の人で出会いました。「人は病気をするときもある。いつまでも元気でいられるわけではないんだ」と思い、気が失せてしまいました。また他の門から出たときに、今度はお葬式の列に会い、「人は死ぬ。老・病・死からは避けて通れない」と世を儚んで出家をし悟りをひらいたと言われてますね。仏教は哲学ですが、この聖書には非常に素晴らしい人生の終末が書かれているのは何のためでしょうか?私たちをガッカリさせる為でしょうか?そうではなく、このみ言葉が書かれた目的は、私たち人間をこのような悲惨な状態にならない前に、今、一日も早く神様を信頼しなさいということを示す為なのです。

 

■人の本分

 そして、人の本分ということが書かれてあります。

13節に、「事の帰する所は、すべて言われた。すなわち、神を恐れ、その命令を守れ。これはすべての人の本分である。

みなさんは、お孫さんから「どうして僕は生まれてきているの?」と聞かれたらどうお答えになりますか?あなた自身は何の為にこの世に生まれてきておられますか?クリスチャンの方ならお分かりになっていますね。神様を敬い、その命令に従って、神様に喜ばれる生涯を送る為に私たちは「おぎゃ~」として生まれてきたのです。仕事一辺等、子育て一辺等、家事一辺等では、それらが終わったら何の生き甲斐も無くなってしまいますね。でも、私たちは神様に喜ばれるためにこの世に出てきたんです。すべての人の本分は、神を恐れ、その命令を守りなさいと旧約聖書は教えています。では、新約聖書では何と言っているのでしょうか?「神の子イエス・キリストを信じ、私たちに命じられたように互いに愛し合うべき」ですと、ヨハネの第一の手紙3章23節には書いてあります。これが今私たちが生かされている目的です。イエス様を信じる。そして、神様に喜ばれるように歩むと共に、お互いに愛し合う。本当に神様を信じ従って、神様を愛すると共に、人を愛して生きていく道こそ、一人ひとりの人生を意味深いものとして、未来の希望も栄え輝くのではないでしょうか。

 召天された方を前にして、聖書のみ言葉は語っています。

彼らの生活の最後を見て、その信仰に倣いなさい。イエス・キリストは昨日も今日もいつまでも変わることがない

ヘブル人への手紙13章7節

私たちには、亡くなった方のいろんな思い出があるでしょう。苦しい思い出、辛い思い出、愛された思い出、意地悪された思い出・いろいろな事があるかも知れませんが、み言葉は、「その人の生活の最後を見て、その信仰に倣いなさい」と語っています。

 昨日、私たち家族を日本からこのブラジルへ呼んでくださったご家族のうちのお一人が召されました。その妹さんからお葬式が終わった夜に電話を頂きましたが、癌で非常な苦しみの中にあったそうですが、この一週間は不思議に神様がその痛みを止めてくださったそうです。もう、そう長くはないとお医者様から言われていたので、妹さんがお兄さんであるその方に聞いたそうです。「兄さん、兄さんの心の中に気にかかることはありませんか?たとえば息子と喧嘩して許せない気持ちや、お嫁さんのこと、あるいは奥さんのこと、すべてを見て気にかかることはありませんか?」そうしたら「僕は足りない人間です。でも、イエス様が赦してくださった。その愛で今満たされているから何にも気にかかることはありません。あなたにも世話になりました」とお礼をおっしゃったそうです。そして、亡くなるまで意識ははっきりしていたそうです。3ヶ月前にはその方の弟さんも亡くなられていました。その弟さんも娘さんとの間で問題があったようですが、そのすべてを許し仲直りされて逝かれたそうです。お兄さんは「全部、神様にお話しして赦されました。先に向こうに行って待っています。早く行った弟に天国で会います」と喜んで息を引き取られたと電話でうかがいました。

 私たちは、「何の楽しみもない」というようにならない前に救い主を信じて、先に召されていったこの写真の方々と同じように信仰の生活を全うしたいと思いますね。そして、やがてイエス様と同じ身体に復活するその朝を望み見ながら、今、地上の生活に耐えさせていただきたいと思います。

お祈りいたします。

「あなたがたに信仰を証しした人のその生活の最後を見て、その信仰に倣いなさい。イエス・キリストは、昨日も今日もいつまでも変わることがありません」と。恵み深い天のお父様、私たちに生きる目的を教えてくださってありがとうございます。先に召された方々がいろいろなところを通されつつも天を目指して耐え忍び喜んで召されていかれたように、私たちも信仰の歩みを全うし、天においてお会いできるようお導きください。また、イエス様をまだ信じておられない方に、「何の楽しみもない、というようにならない前に造り主を覚えなさい」というみ言葉をもって語り続けてくださいますようにお願いいたします。尊いイエス様のお名前によってお祈りいたします。アーメン

牧師

 丹羽昭男

副牧師

    丹羽美香

サンパウロ新聞

の取材を受けました!

 2013/04/21 

↓こちらからどうぞ

http://www.saopauloshimbun.com/index.php/conteudo/show/id/13121/cat/105

取材目的についてお尋ねしたところ、「お年をめされた方々が、昔からの信仰を持ち続け、今もなお喜んで教会へ来られている姿、また日本語だけで行われている礼拝は珍しい」とのこと。この特異な環境にある教会が、主の証しをしていることが広く知られることは、ほんとうに嬉しいことです!また、98歳の姉妹が久々にご出席され、その内容にふさわしく豊かな証しがなされ一同喜びにあふれました!