あかし

「あかし」とは、

神様からいただいた 恵みや愛を他人に伝えることです

ぜひ、一緒に分かち合いませんか?


教会へ通うようになって」             T・Oさん(2007年)
 フリーメソジスト・サウーデ教会へ通うようになり受洗いたしましたが、その後、私自身にいくつかの変化がありました。そのひとつに、よく眠れるようになりました。それまでの約一年半の間、私はとても精神的に不安定で眠れない日々がずっと続いていました。今でもその頃と比べ、私を取巻く環境や状況はあまり変化していないのに、どうしてよく眠れるようになったのか?と考えてみると、単に「悩みが悩みでなくなったという事ではないか、と気付きました。「悩み事」つまり思い煩いでいっぱいだった私の心を、神様がみ言葉(聖書の言葉)によって少しずつ解放してくだっさったお陰なのだろうと思います。  
 私はブラジルに来てすぐに初めての子供を妊娠したのですが、この上ない喜びと幸せを感じつつも、心中はとても複雑でした。なぜならブラジルに来てまだ日が浅かったため、ここブラジルがどういう国か、または生活する環境がいかなるものかを肌で感じる暇さえなく、しかも親類や友達もまったく居ない状況で妊娠してしまった為に、相談する相手も育児書さえないまま、大きな不安だけを抱え込んでしまったのです。よくよく考え、日本での出産を望み安定期に入って帰国しようとしましたが、いろいろの妨げがあってそれも叶わず、ブラジルでの出産を余儀なくされました。この件も今では神様の「みこころ (ご計画)」だったとはっきり確信していますが、その頃の私は妊娠をきっかけに両親との確執や、さまざまな問題を背負ってしまい、何をどう解決してよいのかと、ただただ混乱するばかりでした。
 私は自分を女性として意識し始めた頃から、母となる日を何よりも待ち望んでいました。にもかかわらず、この喜びが時に重荷になることさえありました。また、その事を感じる度に襲われる罪悪感が、いっそう私を苦しめました。とにかく妊娠中は情緒不安定で、すぐ絶望的なことや破壊的なことを想像しては毎日昼夜を問わず泣いていました。今振り返ってみると、先の見えない暗闇をひとり彷徨っているような、そんな重苦しい日々だったように思います。無事に娘を出産してからは、愛くるしい我が子の笑顔と育児の大変さとが心の苦痛を紛らわせてくれて、たいぶ落ち着いた日々を送れるようになりました。ですが「不安」の二文字だけはどうしても拭い去ることはできませんでした。 
 そんな私が今まで一度も訪れたことのない「教会」というところへ導かれ、そこで初めて生で聞いた賛美歌に突然涙があふれ出し止まらなくなりました。礼拝が終わった後、本当の居場所を見つけたような安堵感と、私の醜い心にみずみずしい気持ちを注がれたという嬉しさに包まれていました。それから神様におすがりする思いで、毎晩祈るようになりましたが、当時は祈り方が分からなかったので、とにかく泣きながら「どうか、私に平安をください」とだけ言って布団に入りました。それから程なくして、気がついたらよく眠れるようになっていたのです。神様は弱く小さな私の祈りにもお答えくださり、この心に平安をお与えくださったのです。そのお陰で物事を複雑に捉えたり、くよくよと悩んだりすることが少なくなりました。 その頃、『いっさいの思い煩いを神にゆだねよ』とのみ言葉も与えられ、「困ったら祈る」それが一番の解決方法だと学びました。そしてすぐに答えが得られない時でも、のなされることは皆その時にかなって美しい』のみ言葉で「神様に任せれば最善に事を成してくださるのだから」と思えるようになり、「その時」というものを少しずつですが待ち望めるようになりました。また逆に、突然自分に理解できないことが起こっても、慌てる事も少なくなりました。そして、人間には皆それぞれに「神様の素晴らしいご計画」というものがあることも教えられ私にとってつらく孤独な一年半でしたが「これも神様により通された道なのだから」と、かえって自信が持てるようにもなりました。今では一番気がかりな娘のことも全て神様におゆだねしています。娘は神様のものであって私の所有物ではないという理解を授けてくださり、育児に神経質になっていた私の肩の荷をおろしてくださいました。しかも慣れない異国での妊娠と出産時のストレスも『わたしの恵みはあなたに対し十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる。』というみ言葉で取り除いてくださいました。出産準備が思うようにならなかったことや、産婦人科の先生とのコミュニケーションがうまくとれなかったこと、また文化や習慣の違いから周りの人たちに考えや不安を理解してもらえなかったりと、とても情けない思いを抱き続けて来ましたので、このみ言葉は何よりも慰めになりました。そして今、娘との生活をあふれるばかりの恵みで暮らさせていただいています。本当に感謝です。
 今思えばあの一年半の間は、自分を責め人生をうらみ、また他人をねたみうらやみ続けた年月でした。そんな醜い私を、神様は愛をもって引き上げ、救い、赦し、守り続けてくださっています。こんな強い味方が他にいるでしょうか。そう思うだけで悩みや不安、涙さえも消えていくようです。
 私は神様に出逢うために、このブラジルに導かれたのだと信じています。そして、このブラジルで私に合った素晴らしい教会、牧師、兄弟姉妹を「善き時」にお与えくださいました。すべては神様のご計画だったのですね。
 そして今夜も私はダビデのように、『わたしは安やかに伏し、また眠ります。主よ、わたしを安らかにおらせてくださるのは、ただあなただけです』と神様に感謝申し上げ布団に入らせていただくことでしょう。アーメン

「苦しみの中で」              A・Gさん(2012年) 

 

 ブラジルという慣れない地での結婚、そして子育て。日本にいた時と同じように何でも出来なければ・・・と、言葉も完璧ではないのにいつの頃からか何にでも挑戦しようとしている自分がいました。あれもこれも全部出来て当たり前、と自分を追い 詰めたのでしょう、一生懸命努力すればするほど緊張が増し、精神的にまいってしまい、ついには恐怖が押し寄せ、一人での外出さえ困難になるほどになってしまいました。より良く生きようとしているはずなのになぜこんなに苦しくなるのだろう・・・。私はクリスチャンであるにも関わらず、神様はなぜ守ってくれないの?信仰が足りないから? 神様は私を見捨てたの?などとマイナスの考えが浮かび、ついには何もしたくない、ずっと寝ていたいと思いはじめ、布団に入り天井を見ながら、「神様助けて下さい。」と震えながら祈った事もありました。自分ではどうしようもない孤独な状況に置かれた時、何を頼ればいいのでしょう?やはり、救い出してくださるのは神様しかいませんでした。「自分では解決できない事があったでしょう?」と、自分の力で何でもできると思い上がっていた私に、神様は苦しみを通してそう示してくださいました。そして、この苦しみの中、私に信仰の友をお与えになり、徐々に回復に向かわせてくださいました。苦しい時には、電話で私の話を親身になって聞き、聖書の御言葉、ご自身の証し、サウーデ教会の様子、他たくさんのお話をして下さり、勇気づけられました。「孤独な時こそ神様に近い」そんな話もして下さいました。

 事がうまく運んでいる時は神様を必要としません。ですが、自分ではどうする事も出来ない状況にある時こそ、神様と向き合うチャンスである事を学びました。

そして、もうひとつ、神様は意外な形をとって私をさらに回復に向かわせてくださいました。それは、ひょんな事から我が家で子犬(プードル)を飼う事になったのです。世話は大変ですが、徐々に癒され、生きる力が湧き、明るさを取り戻していきました。犬が苦手だった私が、今では子供を育てるかの様にかわいがっているのです。神様からのプレゼントだと確信し、大事に育てています。

 神様は、苦しい状況にあっても、求めれば必ず何かを用いて苦しみの中から救い出してくださいます。そして、恵みをも用意してくださっています。

 苦しみの中、私の信仰は強められました。神様は私を選んで下さった、お見捨てにならなかった。感謝の一言です。人生良い事ばかりではありませんね。ですが、神様はすべてを益に変えて下さると信じています。無駄な事はひとつもありません。

「きのうみたゆめ」  さら(5さい)      2010、12、11


 サラちゃん、かみさまの ゆめをみたよ。

それは てんごくの ゆめだったよ。

 ママとサラちゃんが あるいていたら、めのまえに かみさまがすわってたの。

その みぎとひだりに てんしもたってたよ。

 それから、なかへはいっていくと、しんだひとたちがめをあけて あそんでた。

ママはひとりで どこかさきのほうへ はいっていっちゃったから、サラちゃんは、じっとみてたの。

ちょっと じかんがかかって ママはもどってきた。

そして、たべるところへふたりでいって、そこでパンとジュースをたべたのよ。

おいしかった!

 パパはね、ずっと くるまでまってたの。

サラちゃんは、「パパもいっしょに はいろう」って、パパのせなかをおしたけど、パパは、「ここで、まっているから」って、いって はいらなかった。

きっとパパは、くるまがとられるのが イヤだったんだとおもう。

てんごくは、くるまでは はいれないところだから、おいていくのが しんぱいだったんだよ。               

 

牧師

 丹羽昭男

副牧師

    丹羽美香

サンパウロ新聞

の取材を受けました!

 2013/04/21 

↓こちらからどうぞ

http://www.saopauloshimbun.com/index.php/conteudo/show/id/13121/cat/105

取材目的についてお尋ねしたところ、「お年をめされた方々が、昔からの信仰を持ち続け、今もなお喜んで教会へ来られている姿、また日本語だけで行われている礼拝は珍しい」とのこと。この特異な環境にある教会が、主の証しをしていることが広く知られることは、ほんとうに嬉しいことです!また、98歳の姉妹が久々にご出席され、その内容にふさわしく豊かな証しがなされ一同喜びにあふれました!