この箇所をリビングバイブルで少し拾い読みをして見ます。
「マリヤは座り込んで、イエスの話にじっと聞き入っていました。
一方マルタはてんてこ舞いの忙しさ。ご馳走やおもてなしのことで気を使うことばかりです。とうとうイエスの所に来て文句を言いました。
主イエスは、
『マルタよ、余りにも多くの事に気を使い過ぎている様だね。・・・』」
(1)マルタは余りに多忙に過ぎた
彼女は接待のことによって、心を取り乱し(惑わされ)、悩まされた結果として、短気となり怒り易くなって、女らしさを失ってしまったのです。
余りに忙しすぎると理性を失うこともあります。
(2)「忙しすぎる」という心から逃れること
その方法は
① 自分の為に時を取る事 (デボーション)
多くの人は、朝起きるとすぐ顔を洗い、次の用に走ります。
そうした事を改めて朝のひと時、少し早目に起きて祈ること、また瞑想すること
です。静かに目を閉じ、心に浮かぶ考えをメモしてゆくならば、心はゆったりとしてきます。朝その時間が持てない時には日中でも、聖書を読み黙想する時を持つことです。夜は一日を反省し、お詫びいたし、すべてを神にゆだねて休みます。
② 他の人と常に釣り合いを取っていくこと
私たちは他の人々と共同生活を営んでいますので、余りにも多くの事柄によって心遣いをしているのも事実です。が、最も大切な事、最も善くまた必要であって
欠けてならぬものを忘れているのです。
他の人々と共にものを分け合い楽しい生活を続けること。すなわち他の人のことも考えて、愛し合い、良き隣り人となって生きてゆくことです。
自分の苛立ちを他人に当たらないように。
③ 常に「神と共にいる」という心を持つこと
昔の人が言った言葉があります。
「誰であっても、神様と共にいるという意識を持ち得ない者は、神様が望んで
おられる以上に忙しい生涯を送っているのである」
この言葉はまさにその通りです。
この雑然として、やかましく多忙すぎるという現代にあって、神様が共におられるという確信を持って、時も持ち物も自分自身さえも、最も有益に持ち得るようにしましょう。
忙しいと言う漢字は、「心が亡びる」と書くのですから。