テキストP30~31
[1]ベテスダにおけるいやし
(1)いやしのわざ
主イエスは、38年間病気で苦しんでいる人に自ら近づき、み声をかけられた
「なおりたいのか」
病気の彼は、「あきらめ」に満ちた返事をかえした
主イエスは、彼に
「起きよ。トコを取り上げよ。歩め」と言われた
その時、彼の長い病気は完全にいやされた
(2)罪の赦し
・主イエスが、この病気をいやされたのは憐れみからの「愛のわざ」であった
・しかし、主イエスがこの世にこられた目的は、
「罪を赦す」ことであった
そして、「永遠のいのち」を与えることであった
・病気をいやされたことを、最大の恵みとし、それ以上の
「罪の赦しによる永遠のいのち」を求めない者ものは、主イエスを救い主と信じるものではない
・この世には、病気の時には神のあわれみを祈り求めるが、いやされるとその恵みを忘れて神から離れていく人が多い
(3)いやしと信仰
①両者の働き
・信仰はいやしを助けることにつながるが、
しかし、信仰が必ずしも肉体の病気をいやすとは限らない
・いやしは信仰を導く機会となるが、
しかし、いやしの結果、常に信仰を生むとはかぎらない
・信仰といやしは、それぞれの領域において独立の働きであり、
共に、神の栄光があらわれるためである
②両者の違い
・信仰は、「永遠のいのち」に関するもの = 永遠的
・いやしは、「肉体の命」に関するもの = 一時的
・どこまでも、いやしは、信仰を導くものとならなければならない
③両者の一致
・いやしが「罪の悔い改めと信仰」に結びつくとき、
はじめて、いやしの業は伝道の働きとなる
テキストP32~33
(4)安息日問題
・ベデスダの池での「いやし」は、ちょうど安息日に行われた
・ユダヤ人は、安息日を重んじていた
ユダヤ人によれば、安息日に
○いやされた者が床を取り上げて運んだり、
○主イエスが、病気をいやしたことが、
律法に反しているという
しかし、現実には、安息日を守るための規則を様々つくったが、その規則にしばられ本来の安息日をおろそかにしていた
↓
主イエスは、そのことに対して彼らに
「わたしの父は今に至るまで働いておられる
わたしも働くのである」
神に喜ばれることをすることが、安息日を破ることになるのか?わたしの父である神は、安息日でも人間に対し良い業をされているではないかー、
神は、安息日にも太陽を昇らせ、人に恵みを与えておられる
だから、主イエスも働かれるのである
・つまり、「安息日は人のため」にあるのであって、
人が安息日のためにあるのではない
・主イエスは、愛の業(病人をいやすこと)によって、真実な意味において安息日を守られたのである
↓
・しかし、形式的な律法主義者のユダヤ人たちは、
この主イエスの愛の業のみ心を分かろうとせず、
主イエスが、神を「わたしの父」と呼ばれたことで、いよいよ殺そうと計るようになっていった
テキストP33
[Ⅲ]父なる神と主イエス 5:19-29
(1)父と子
主イエスの生涯
・前半は、人々に賛美されていた
なぜか?①メッセージそのものに神の威厳があった
②御業(奇跡)の数々により
③人格 存在自身が人間を超えていた
・後半は、批判・憎しみを受けた
なぜか?①安息日問題
②神を「父」としたこと
・最後は、十字架上での死
主イエスが、神を「わたしの父」と言ったこと
・わたしと神とは一つ ・主イエスは神
と同様の意味であるが、そのことでユダヤ人は、主イエスを殺そうと思うようになった
「子の父」=神と、「子」=神 の、愛による一致こそ、
主イエスが、神の御子であられることを信じることが出来る
(2)子のわざ
・父なる神のみわざは無限=子なる主イエスのみわざも無限
(3)審判
①「復活」のみわざ
②「審判」のみわざ
・神は、御子である主イエスに審判を委ねられた
よって、を敬うものは、主イエスを敬わなければならない
また、主イエスの逆らうものは、神に逆らうことになる
(4)永遠の生命
・永遠の生命は、この世において、主イエスを信じた時すでの与えられ、本質的には死より生命を移されたのである
・肉体の復活は、霊的に新生された者の必要の結果である
・人の救いは、ここに至って完成する
(5)審判の事実(実現)
・世の終わりのラッパが鳴り響く時、
「禅を行ったものは生命に甦り」「悪を行ったものは滅亡に至る」
だから、今こそ主イエスのみ声を聞き、信じる者にならなければならない
テキストP34~35
[Ⅲ]主イエスの証明者 5:30-47
(1)バプテスマのヨハネ
・「主イエスが神の御子」である最初に証しした者
・ヨハネは、心理である主イエスを照らし、証をした
ヨハネは「燃えて輝くあかり」であった
(2)さらにまさる証し
・主イエスは、人からの証明を必要とはされない
・主イエスは、ご自身が神の御子であることの証明者として
ヨハネよりもはるかに偉大なものをもっておられる
それは、父なる神が与えておられる「みわざ」である
(3)ユダヤ人の頑なさ
・ユダヤ人は、神よりの誉れを求めず、人間中心の肉的心をもって主イエスのみわざを見、聞くので、見ても知らず、聞いても悟らなかった
心が鈍くなってしまっていたからである(イザヤ6:9-10)
・ユダヤ人が、主イエスを信じない原因は、証明の欠乏ではなく、彼ら自身の真実の欠乏であった
(4)モーセの律法
・ユダヤ人は、モーセの律法によって主イエスを責めている
しかし、モーセの律法そのものは主イエスの型であり、預言であり、証明である
(5)結び
・主イエスが自分の証明として「5つ」あげている
第一 「バプテスマのヨハネ」
第二 「主イエスのお働き」
第三 「父なる神」
第四 「みことば」
第五 「モーセ」
・主イエスが「神の子である」ことを証明したにもかかわらず、ユダヤ人が主イエスを信じないのは、神を愛し敬う真実な心を持たないからである
~第6章へつづく~